ジャケットを脱ぐとこんな感じ。シンプルこの上ないワンピース。
わたしの役はブレードランナー。なので生地が厚く、縫製もしっかりしたレザーのジャケットとワンピースには、耐久性や耐弾性も求めているというわけ。レザー&レザーの組み合わせにはちゃんと理由があるというね。
極薄のボディアーマーを裏地に縫い込んであったりすればもう万全。
命のやりとりに関わる危険な職業には、これくらいの装備で臨まなくては。
太腿から足首までが無防備?
そこは機動力でカバー。かの少佐も言ってました。「当たらなければどうということはない」って。






今回のコンテンツをUPするにあたり、ちょっと悩んだことがあってね。
「Everyday wear」配下に置くか、「Others」配下にするべきか、つまり、わたしの格好は普段着と言えるのかどうかということ。
ジャケットもワンピースも、極々一般人向けと思われるネットショップで買ったものだし、特に用途が限定されるようなデザインでもないし、「Everyday wear」の方が妥当と判断したのですが、どうでしょうかね。
実際、こんな格好したお姉さんに出会ったことあります?
コロナ禍が襲来して、街中に出ることが激減した状況ではまだしも、それ以前の日々通勤していた当時から、大阪でも奈良でも千葉でも広島でも、わたしが住んだ所どこでも、レザーとエナメルでかためたファッションのかたに出くわした覚えが無いのですよねえ。
レザーのライダースジャケット単独ならありますよ。電車に乗ってる女性で、わたしのよりもう少し非戦闘的なイメージのを着てるかたをちらほらと。でもワンピースはねえ、ゼロだ。ググってみると、日常的なコーデとしてレザーワンピースを用いようと謳っているサイトもあったりするものの、どうにも受け入れられていない気がする。
それともあれか、わたしが住んでた地域がダサいとこばっかで、東京や神戸、京都などオシャレな街では、レザーなお姉さんが跋扈しているのか。
わたしが若い頃、サラリーマンの間で何故かレザーが流行ったことがあってね。誰も彼もレザーのコートを羽織ってて。わたしもダブルのハーフコートを買って、毎日着てました。
という流行のワンピース版が訪れれば、天王寺や鶴橋辺りでカッコいい人を見かける時が来るかも。
あ、万が一にも誤解されないと思うけど、サラリーマンがワンピース着るんじゃないぞ。そこのところよろしく。






座りました。
ブレードランナーが席に着いたということは、その手前に机があり、フォークト=カンプフ検査装置が載っていると想像するべし。
「”ふぉーくと”って入力して変換したら”フォークと”になった。フォークなんとかてナニ?」
というかたの為に、かるくウィキペディアを引用しつつ説明すると、
・人間とレプリカントを見分ける方法
・人の感情を大きく揺さぶるような質問を繰り返し、それに対して起きる肉体的反応を計測する
・検査は専用の検査装置を用いることによって行われる。装置は本体に黒い大きな蛇腹状のパーツと数種類のモニタを備え、本体から伸びる伸縮式のアームの先には反射鏡式光学照準装置のようなものが取り付けられている。アーム先端の装置には虹彩を計測するビデオカメラを内蔵しており、収縮する蛇腹状のパーツは、対象者の身体表面より発散される粒子を収集するための装置である。
だって。ありがとう、ウィキペディアの編集者の人。
映画「ブレードランナー」の原作である、小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」での記述を用いて補足すると、道徳的にショッキングな質問に対して起こる、恥とか赤面の反射運動(顔面毛細血管の拡張度)を測定することと、眼筋の中の緊張の変動を記録することが検査方法の骨子であって、アンドロイド(レプリカント)と人間では反応の仕方に違いがあるのだ、と。






では具体的に、フォークト=カンプフ検査をやってみましょう。
検査するのはHiromi、被験者はリアルわたし(奈良在住のおっさん)。
わたしの質問は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(ハヤカワ文庫、昭和六十一年七月三十一日 十四刷)からの引用です。
H 「きみは誕生日の贈り物に、仔牛皮の紙入れをもらった」
O 「紙入れって何だ?札入れならわかるけど」
H 「きみには坊やがいる。その子供が、きみに蝶のコレクションと毒壷を見せた」
O 「その毒壷はきっとウツボカズラだ」
H 「きみは坐ってテレビを見ている。とつぜん、手首をスズメバチが這っているのに気がついた」
O 「ショックで死にます」
H 「雑誌を読んでいたきみは、見ひらきになった女のカラー・ヌード写真にばったり出会った」
O 「俺は縛りがないと燃えないのだ」
H 「きみは戦前に書かれたある小説を読んでいる。その本の登場人物たちは、サン・フランシスコの<猟師の波止場>を訪れ、空腹を感じたので磯料理のレストランに入った。中のひとりがエビを注文し、コックは彼らの目の前で、大釜の熱湯の中にエビを放り込んだ」
O 「ツインテール(身長45m、体重15000t)の肉はエビの味がして非常に美味しいらしい」
H 「きみはテレビで、むかしの映画−戦前に作られた映画を見ている。画面では宴会が進行しているところだ。客たちはうまそうに生ガキを食べている。主料理は、ライス詰めの犬の丸煮だ」
O 「おいしくいただきますニダ」
さて、リアルわたしは人間かレプリカントか、さあどっち!?






原作の名前を出したので、内容にも少し触れておきますね。
色々な意味で、映画とは別物です。わたし的に両者のキーワードを挙げてみると、
映画:自らの生に納得できない人造人間(レプリカント)の足掻きと達観。人造人間と人間の間に芽生える愛情。
小説:人間と人造人間の境界が曖昧になる様。いかなる者にも感情移入できる人間。
映画は、レプリカント観点が重要な要素ですが、小説のほうはあくまで人間がメイン。映画では登場しないデッカードの妻が、難解な物語を穏やかに締め括ってくれます。
わたしは映画を観てから原作を読みました。これは正解だっと思います。
映画のほうがエンタメ寄りでとっつき易いですから。でも、小説には小説にしかない味わいがありますので、未読のかたには強くお勧めいたします。
SF好きなみんな、今すぐ書店へGOだ!!(古いSFなので、表現も昭和)

2022.4.2